コラム「まるごと日誌」

不器用な生き方しかできない人間です。何でも光と影でできていると考えています。その両方をまるごと見て考える必要があると思っています。そんな私が,日常で感じていることを,気楽に書いていきたいと思います。

便利さは何のために

 国の政策により,小中学生が1人に1台タブレット端末を用いて学ぶことになった。

 届いたタブレットに,1人1人のアカウントとパスワードを入力する。

 当方はICT好きで,機器の便利さを知っているので,勇んで楽しみながら作業をしていた。

 ところが・・・である。

 徐々に不安が募ってきたのである。

「あっ!そうか!」という本気の驚きの声。ノートに何か書きながら「うーん・・・。」と頭を掻き掻き,考えを練る姿。友の発表を聞き逃すまいと必死に耳を傾けながら友を見つめる眼差し。体育で試合をしたとき,互いに応援しながら,素晴らしい動きを見て感動した思い出・・・。そういった温かくもたくましい姿が,強烈な懐かしさと共に思い浮かんでしまったのである。また見られるのか?という思いと共に。

 タブレット端末は確かに便利だ。しかし,その便利さは一体何のためにあるのか。どんな子どもを育てるためにあるのか。便利さという一時的なことを追い求めることで,遠くにある肝心の目的を忘れてはならないのである。

通勤路にて

 平日と休日で出勤路を分けている。

 平日はバイパス。必要があれば高速道路である。だから車の列しか見えない。しかし休日は農道経由する道を行く。途中に住宅街もあり,車で通るわずかな時間だが,そこに住む人々の様子を垣間見ることがある。

 通勤路添いに小さなダンススクールがある。信号で止まったときに目にすることができる。小学生が正面の鏡を見据えて,自分の動きを見ながら踊っている。歩道沿いのガラス窓から見ている人がいるのだが,気に留める様子もなく,一心不乱に踊っていた。

 なぜあんなに集中して自己表現できるのだろう。ふと,そんなことを考えた。自分が目にする小学生の中には,ひと言発するにも,周囲の目を気にして躊躇する子もいる。その大きな違いは,何によってもたらされるのか。

 自信。度胸。好きなことだから等々,ひと言で済まされることかもしれない。しかし,そのひと言で言い放たれることが心に宿り,動きとなって表れるまで,その人の中にどんなドラマがあったのだろう。どんな月日を過ごしたのだろう。どんな思いの変遷があったのだろう。考えるほどに,畏敬の念が湧き出てくる。

 批評,批判の言葉は簡単に生み出せる。しかし,周囲の目をものともせず,自己を表現する思いは簡単に生み出せるものではない。一生懸命に何かを伝えようとしている人々に対して,もっと畏敬の念をもって耳を傾け,当事者意識をもって考える必要があるのではないかと思う。より多くの人々が互いに畏敬の念をもてば,互いに責任を押しつけたり罵り合うこと無く物事が進むように思えてならない。

 休日出勤の道すがら,良いことに気付かせてもらったと喜び,仕事に向かうことができた。

感動不足に「おちょやん」が

 NHK朝ドラ「おちょやん」のダイジェストを見た。

 見終わったとき,涙が流れた。

 なぜだろう・・・。失礼ながら,内容は到って「ベタ」なもの。同じような物語は今までたくさん見てきたのだが・・・。

 振り返って,はたと気付いた。

 そういえば,自分の生活に「感動」がない。今週の「おちょやん」のように大人同士が本音をぶつけ合い,心を通わせて,悩み,一番大切なことに気付いていく。そんな感動はここ5年間,まったくない。だから,こんなに涙が流れたのだと。

 職業上,そして私の特性なのか,これまで大人同士で随分本音を交わし合ってきた。

「あなたには,なぜかみんな一生懸命になりますね。」

恩師からこう言われたこともある。本音と本音で築いた仕事や関係は,途中でいろいろあっても,最後は不思議と良いままになる。

 ここ5年間は,それが全くない。不満はあっても本音の交わし合いがない。感動がない。だから良い仕事も無かったのだ。

 「おちょやん」に描かれた「ベタ」なもの。それは決して「ベタ」ではなく,とても貴重で大切な思い出であり,これからも築いていくべきものだと気付かされたのだった。

 

数字の奥にあるドラマを探ろう

 新型コロナウイルス感染症のニュースがメディアを賑わせ,半年ほど経つ。

 こういうときは最先端の情報が大切だ。さらに,その情報を自分の目線で解釈する必要もある。初めてzoomをするタイミングで,東大生物学科を卒業した友人に尋ねてみることにした。

 「感染者数ばかり報道されてるけど,全検査数が示されないのは,なぜかなあって思ってるよ。」

 そうだなと思った。率を見なければ感染の状況を推測できないのだ。

 さらに言えば,どんなエリアの人たちを検査したら,その率になったのかということも必要な情報である。東京で検査数10000人のうち240人感染と,関東全域の10000人のうち240人感染では,感染状況推測も対処法決定も違いが出る。大きな違いがある情報だろう。

 

 新型コロナウイルスのことだけでなく,メディアは数字情報(特に%)を多く出す。

しかし%は分母と分子で成立している。分母は何でいくつか。分子は何でいくつかが分からなければ真相は見えてこない。

 数字のみ(特に%)で判断せず,その奥にある人間ドラマを探って判断していきたいものである。

観点が乏しい人の評価は

 子どもたちが先生を評価する。学校生活を評価する。親を評価する。そんな調査が流行して久しい。

 声なき声に耳を傾ける。弱者の声に耳を傾け,改善に活かす。とても良いことのように言われているが・・・。

 実際に評価を受ける立場になってみると「この子の評価は信頼できる。」「この子の評価は,自分が楽をするためのものだから,全体の傾向を反映しておらず信頼できない。」などと,評価をした人の観点や普段の態度を思い浮かべ,軽重をつけて見てしまう。つまり,全体をまるごと見ていないであろう人の評価は,信じてもらえないということである。

 さらに言うと,子どもたちに評価をさせるということは

「あなたは,適切な評価の観点をもっているよ」

という誤ったメッセージを送ってしまうことになる。適切な評価の観点を全くもっていない子にまでである。このようなことは,あってはならないはずだ。観点が乏しい人に評価などさせてはいけないはずなのである。

 もちろん,これは自分にも当てはまる。

 何かを評価するときには「自分から見て」「みんなから見て」と「まるごと」捉え,

最後は「みんなのために」を中心に据えて行いたいものである。

休憩にするには覚悟がいる不思議

「みんながやっているんだから・・・。」

「あなただけ変ですよ・・・。」

 強い集団圧によって,人を変えようとする。

 悪人に対しては良い方法だ。「スカッとジャパン」などで採り上げられる悪人に対して,よく採られる方法だろう。

 しかし職業上,何に対しても集団圧をかける人を,よく見かける。

「何で,あなただけできないんですか?」

「みんなちゃんとやっているのに・・・」

「一人だけできないなんて,おかしいですよ。」

まったく話を聞かず,ふざけている子には必要だろう。しかし,話をしっかり聞きとり,言われたことをしっかりやっている子に対して,上記の言葉を浴びせている人を見たことがある。

 この言葉の恐ろしさは3つある。1つは当然,言われた本人の孤独感が強まることだ。真面目な子ほど,強い孤独感を抱える。

 もう1つは,周囲で見ている子が強い恐怖感をもつことである。真面目で思いやり深い子ほど,自分もあんな目に遭うのか・・・と恐怖を感じる。

 最後は,結果的に言われた子は孤立することになることである。

 こんなときは,

「お話をしっかり聞き,覚えておきましょう。」

「失礼のない態度で聞きましょう。姿勢良く・・・」

などと,直してほしいポイントが伝わるようにする。

 

 話を戻す。強い孤独感や孤立感を感じたら,時に学校や仕事を休むことも必要なのではないか?いや,むしろ積極的に休むべきなのではないかと思う。

 しかし,日本は特に休憩をとるのに覚悟や勇気が必要な国だと思う。休む人が悪であるかのように感じさせる環境である。

 休むことは構わない。制度として保障だれているのだから,安心して・・・とはいかないようだ。

 周囲の人たちが,その人の状況を「まるごと」捉え「戻ってくるのを待っているよ」という気持ちでいてくれる。そんな温かい風土の集団を創りたいものである。

三浦春馬さんの訃報

 休日出勤して,ふと携帯を見た。

三浦春馬さん 自殺」

 一瞬時が止まり,気持ちが凍りついた。

 なぜだ?これから良いことしか待っていないはずの人が・・・。

 主演ドラマや映画をいくつか見たことがある。

 映画「君に届け」では,ハンサムでクラス1の人気者の役で,とてもあたたかい心の持ち主を演じていた。ドラマ「僕のいた時間」ではALSに冒された主人公を,ハートフルに演じていたのを覚えている。

 かっこいい。歌もうまい。演技もすばらしい。あたたかい心をもっていそうだ。

 人も羨む未来しか待っていないように・・・見えた・・・。

 見えた・・・なのだ。心の中のことは,分かることができない・・・それが悲しい。

 

 自殺という報を聞いて,若い頃と比べて受け止め方が変わったことを感じている。

 自分も何度か考えたことがあるからだ。初めては,小学生の時。いじめられる日々が辛かった。次は,職に就いてから。激しいパワハラを受けたから。この時は,気持ちが実行寸前のところまで追い込まれた。

 耐えることができたのは,まわりの人々の優しさや,大切な人たちの悲しむ姿を思い浮かべたからである。

 これは自分の場合だけど,自殺へと心が追い込まれるのは,困難が続くことだけでなく,未来を塞がれ,向き合っていく自信が無くなったときだと思っている。

 今の困難は,未来の自分に活かされる。未来の自分のためになる。わずかでも,そんな希望の光が見えていることが必要だと思う。

 何が希望の光になるのか?それは本人にしか分からない。決められない。たとえ他人から見たら羨ましい生活をしている人でも,心に希望の光がなく,孤独感や寂しさを感じている人は多いのかもしれない。

 人の今の心の中や,過去の経験で味わったどんな思いを抱えているのかは,外側からは分からない。たとえ恋人でも,家族でも。完全に分かることなどできない。

 

 だからこそ「まるごと」見ていこうとする努力と覚悟が必要なのだと思うのである。

その覚悟無くして「笑顔でいよう」とか「いつも明るく晴れやかに」なんて無責任なことは言えないと思うのである。

 

 三浦さん・・・辛さから解放され,天国では笑顔いっぱいでいてほしいと思う。

 でも・・・でも・・・少し休憩しても良かったのに。生きて,あのあたたかい姿とさわやかな笑顔を,また見せてほしかった。

 残念でならない・・・。