どんな人にも 良いところがある
やること成すこと,癪にさわる人
話したくないなと思う人
会いたくないなと思う人
などなど,どうしても合わない人がいるものだ。
合わないところを知っているくらいだから,仕事や活動の時ほど合わない人に
遭遇する。だから合わないところを嫌でも見てしまう。気になってしまうのである。
そんな時ほど「まるごと」を意識して,相手を見たいものだ。
こんなことがあった。
風が強かった日の翌日,私が他学年の植木鉢を立てていた。そのとき,私と合わない人が,その様子をじっくり見ていた。
翌日,また倒れていた鉢を,その人が立てていたのである。
たとえ合わない人がしていたことでも,子どものためになることは採り入れよう。
当たり前のことのようだが,その人の心の中を見た思いがして感動した。
「そうだよね。」
心の中で,そう呟いたことを覚えている。
ある日の授業協議会。大嫌いな人と同席せざるを得なくなった。そして,私が司会。とても憂鬱だった。
私が「子どもが主体的になった姿を捉えていきたい。」
と発言したとき,
「それは,授業後のゴールのようなもので,授業中に,その姿だけを捉えようとすると,子どもにとって厳しすぎるのではないか。ゴールに向かうまでの途中の段階にある姿を捉えなければいけないのではないか。先生は,子どもが途中段階にあるとき,どんな姿になると思いますか?」
この問いかけをハッとなった。そうだ。授業中の子どもは,ゴールに向かう途中なんだ。その途中にある良い姿を価値付け、褒めて,勇気づけなければ,ゴールに向かう勇気ややる気は続かない。
大嫌いな人の一言だったが,自分を大きく動かすものになった。
まるごと見れば,どんな人にも良いことがある。
その気持ちを忘れずにもって,出会う人たちを見ていきたいものである。
「育てる」って,どうなればいいの?
「この子たちを育てたい」
「この部下を立派に育てたい」
よく聞くセリフである。
しかし「育てる」って言うけど,どうなるればいいの? 育てたい人は,そのために何をするの?と聞かれると,どうもはっきりしない。あやふやである。
今回は「育てる」を,まるごと見ていきたい。
当然だが「育てる側」と「育てられる側」がある。ベテランと若手。上司と部下。担任と児童・生徒といったところだ。
「育てる側」と「育てられる側」が,同じゴールイメージをもっているか。実はもう、そこから疑問である。
個人的な経験だが,今まで出会った「育てる側」で,このヴィジョンが明確な人は,少なかった。
「いろいろ言ってるけど,結局,対面が気になるだけじゃん。」
「ただ,ガミガミ言いたいだけじゃん」
「ロボットになってほしいだけじゃん」
何度そう思わされてきたことか。自分のことしか考えてないなと感じさせる人たちが圧倒的に多かったように思う。
同時に「育てられる側」は,どうなりたいのだろう?実は自分の将来像を明確にもっていない若手も多いように思う。
今の自分の場合、ゴールイメージは明確だ。
「自立と自律」
これだけである。自分で判断し,自分で結果に向き合い,自分で修正できる人へと育ちたいし,育てたい。
このイメージを共有し合って,目の前の仕事に臨む仲間集団をつくりたいものである。
みなさんの「育てる」って,相手にどうなってほしいですか?
特別支援教育の影で
平成19年から,特別支援教育で「個別の支援計画」「個別の指導計画」作成が義務付けられた。
「指導計画」は「必要に応じ,児童一人一人のニーズに応じた指導目標や内容,方法等を示したもの」である。
「支援計画」は,関係機関の連携による乳幼児期から学校卒業後まで一貫した支援を行うための教育的支援の目標や内容等を盛り込んだもの」である。
平成19年度以降,学級で児童・生徒が不安定になると,作成されるようになった。
担任によって,児童にとっての目標と,目標に迫るための手立てが記入される。
担任が,手立てを講じて,目標に迫るように努力をする・・・という流れを狙ったのだろうが・・・現実は違う方向へ進んでいるように思う。
担任が子に目標を設定し,担任が決めた手立てを講じていく。
担任は,子のニーズはこれだと決めつけて,手立てを講じていく。
何が言いたいか・・・子どものニーズが汲み取られているか,非常にあやしいということである。
担任は,自分が決めつけて設定した目標を押し付ける。だから子に合った手立てを見付けることができない。
そして,この制度最大の欠陥であり,教育業界最大の欠陥が姿が見て取れる。
児童・生徒が不安定になり、個別の支援計画・指導計画が作られる。
児童・生徒が不安定になるのは,その特性が悪く出たからである。
特性を悪く出させるのは,環境である。
学級の環境を決めるのは,担任である。
つまり,担任が自分の指導を改善しなければいけないはずなのだ。
なぜか担任の改善は,自主的な気付きに,委ねられている。
もっと言うと・・・担任の中で,言われやすい担任だけが,多くの指導を受ける。ヒステリックになって自己弁護をする担任には,指導が成されない場合すらある。
まるごと見ていくのなら,学校で何か不安定なことが起こったら,子ども 担任
保護者の三者が改善しなければいけないはずである。同じ目標を見据えて,みんなが改善していくように努力したいものである。
ジェンダーフリーの影で
ジェンダーフリーが常識となって久しい。
「従来の固定的な性別による役割分担に捉われず,男女が平等に自らの能力を活かして自由に行動・生活できること」が,ジェンダーフリーだそうだ・・・。
教育関係を見ていくと,かつて,固定的な性別による役割分担があった。
たとえば,運動会の準備。早朝からの準備で,男性職員は大道具準備や鋼鉄でできた指揮台運搬。グランドのライン引き等の外仕事や力仕事をして,女性職員は朝食を用意して一仕事終えた職員を労った。また,学芸会では,ひな壇や照明等の大道具運搬は男性職員。掲示装飾作成や来賓歓待の準備は女性職員というものである。
確かに固定的であった。しかし,男女共に重要な役割を担っていたので,対等だという自負を持つことができた。だからこそ互いに思いやりをもって仕事に臨んでいたように思う。
それが,今は・・・(自分の職場だけだろうか?)ジェンダーフリーからほど遠く,男性差別が拡がっているように思う。
こんな光景がある。
男性にリーダーシップを発揮してほしいと,原案を無理に作らせる。そして出された案に対して,代案を述べることなくダメ出しをする。「なんか違うのよねー」と。
全員女性の学年がある。そのうちの一人が,「月曜日に100m走をしたいから,グランドにラインを引いておいて。私たちが引いて,間違えて,他の人たちから文句言われると嫌だから。」と,金曜日の夕方に頼んでくる。頼まれた男性は,休日出勤してラインを引いた。
これがジェンダーフリーなのか?代案無きダメ出しの酷さは言うまでもないが,ライン引きのことも,最低限のマナーは一緒にラインを引くことだろう。
「私たちでラインを引くんだけど,一緒に手伝ってもらえないかな?」
というように。
ジェンダーフリーは,男性と女性共通の原則である。男性・女性をまるごと見て,仕事において本当に平等になっているか,検証してほしいものである。
今日から始めます
「まるごと」日誌と名付けて,今日から私が日常感じていることを書いていきます。
教育関係の仕事をしています。記事にもその関係のことが書かれると思いますので,
読んでくれる人がいたら,気楽に読んでください。
教育関係のことだけでなく,私が日常出会ったことを「まるごと」見て書きたいと思っています。
どんなことも「光と影」でできていると考えていますので,光の部分と影の部分の両方を見ていかなければ,偏ってしまい「まるごと」になりません。
それに,人間の物事には「光の中の影の部分」「影の中の光の部分」があるはずです。「まるごと」見ることで,物事を一元的に捉えないように努力したいのです。
なーんて堅苦しく書いてしまいましたが,書きたいことを書きたいように綴っていきます。文章が下手な方なので,書いては訂正し,また書いては直しという作業をしていきます。しかし,伝えたいことが伝わるように努力します。
見てくださる方は少ないと思いますが,もし気が向いて見てくださる方がいらっしゃいましたら,よろしくお願いします。